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イシノラボ/マスターズ店長の連載

第1弾 日本オーディオ史

第45回 日本のオーディオ産業の変遷

戦後の混乱期からの脱却は、オーディオ産業では、まず、部品の輸出から始まった

1964年の東京オリンピック以後、1$/¥360の為替レートもあって、まず、対米輸出として電子部品の輸出が始まった。当時のアメリカはまだ、TVの組立など電子産業がしっかりしていた。GE(すでに、オーディオブランドはフランスのビシェーグループに買われた)、RCA(これもGEと同様)、フィルコ、スコット、フィシャーなどなど、アメリカの電機産業は堅調であった。
そうしているうちに、日本人はアメリカ部品に負けないものを作り出した。為替レートが追い風になって、対米輸出が急激に伸びてきた。
TV用トランスにタムラ、スピーカにパイオニア、信濃音響(現フォスター)、受信機の高周波部品はミツミ、トリオ(現ケンウッド)等が対米輸出を急増させていた。
これらの電子部品の中心地はシカゴであったから、上記各社のアメリカ拠点はシカゴから始まった場合が多かった。

ベトナム戦争のおかけで、オーディオメーカーが大いにうるおった

その後始まったベトナム戦争(7年6ヶ月も続いた)では、アメリカ兵士の大量派遣もあって、アジア地区の米軍基地は米兵で溢れかえった。
南ベトナム基地、フィリピンのクラーク、ス―ビック基地、沖縄、横田、横須賀、佐世保、などのPX(米軍の売店)商売は大繁盛。
兵士は戦時手当てを貰って、日本のオーディオ製品を買いまくったのであった。米軍向けは、面倒な取得手続きに必要なUL規格が免除されたし、納入すれば、米軍からの代金の支払は確実であった。しかも、まだ1ドル¥360レートであったから、買い手からすれば大廉価で買えたわけである。
現在、中国が元安で生産し、高成長をしているのとほぼ同様でした。

このような恩恵にあずかったのはSONY、アカイ、パイオニア、TEAC、サンスイ、トリオ、などなどであった。 米軍向け(PX)製品は梱包100(254cm)サイズの制限があったが、兵士は買うと、無料で故郷まで、米軍が航空便で届けてくれたのであった。
ベトナム戦争で米軍が劣勢になるにつれて、かなりのコンポが兵士遺体とともにアメリカの実家に戻ったと言う痛ましい話は当たり前であった。 また、他地域の基地でも、PXカタログ(現在の通販カタログに相当する)を見て米軍のPX担当部署にオーダーすれば、品物が届くシステムになっていた。
当時オーディオ各社はどのようなものを売っていたかと言うと、ステレオレ・シーバー、ステレオ・オープンテープデッキ、スピーカ、レコードプレーヤーなどであった。
好景気に沸いた各社は、臨時ボーナスを出したり新事業所(工場)を作ったりして、現在の中国以上の異様な景気であった。オーディオ各社の工場は労働力の安い地方に分散し、その地方は有力な雇用、税収元となった。(現在では、ほとんど消滅し、中国などの海外に 出て行ってしまったから、地方の経済は衰退するわけである。)

米軍向けオーディオビジネスは、1985年頃くらいまで盛況で、年末に横田基地で開かれる翌年の新製品予定のプレゼンテーションは、重要なイベントであった。(筆者も何度かプレゼンテーションに立ち会った。翌年用サンプルが間にあわない場合は、デザインスケッチ(絵に描いた餅)で新製品として認められて、翌年の販売は許されるのであった。
このイベントで採用合格が決定した製品は、翌年版の米軍向け(PX)通販カタログに掲載されて、その分厚いカタログは世界中の米軍兵士、関係者に配られるのであった。
ともかく、PX商売が確実なうちは、オーディオ専業各社はそこそこ安泰であった。

段々と米軍は劣勢になり、サイゴンは陥落し、米軍は先を争って逃げた。そのような危険な地域に販売員として駐在していた山水社員は、命からがら米軍のヘリコプターに飛び乗って逃げてきたと言う話は聞いた。
こうして、儲かる米軍ビジネスは下火になっていった。

対米に拠点を構える

ベトナム戦争終結後あたりから、オーディオ各社はアメリカ本土に拠点を本格設立して、アメリカマーケットに乗り込んで、直接ビジネスをやろうということになった。
電子部品でなくコンポ製品となると、拠点はニューヨーク(税金の問題から、隣のニュージャージーに設立)地区、ロサンゼルス地区での設立が多かった。
1970年代のアメリカの民生電子業界は、6月のサマーCES(シカゴで開催)が取引の中心で、全米、その他地域から、有力ブランドが集結した。大きなコンベンション・ホールは、パナソニック、SONY、TOSHIBA、等の日本ブランドが広いスペースを構えて、日本の成長をはっきりと米国人に植え付けた。アメリカブランドは小スペースに追いやられていった。
アメリカのオーディオビジネスはどうやるかと言うと、全米をいくつかの地域に分け、各地域の業績はリージョナル・マネージャーが責任を持つ。実際の販売は、日本人がお店に行って売り込んでも違和感あるだけであるから、販売代理人(レップ)にやってもらう。
レップは売上に応じた手数料を貰う(近年の日本のオーディオビジネスもレップ制を取り入れることが多くなった。)。
どういうわけか、レップには有色人種の方はほとんどいなかった。ユダヤ人が多かったのは、商売上手であったからだろう。
利益は、米軍向けに比べると厳しくなってきたが、けっこう売れた。特に、ステレオ・レシーバーが販売の主力であった。何故なら、当時のアメリカでは放送局の多極化が進み、FM放送が全盛であったからだ。
また、セパレートシステムが中心のAU−607、707にしても、アメリカではかなりの数を販売できた。これは、AVEXの創業者Y氏の手腕があったと思われるが、アメリカマーケットの商売は、各社成功したと言えるだろう。

だが、衝撃は為替レートの変更にあった。プラザ合意(1985年9月22日)により、円は¥360→¥240〜¥260に円高推移していった。アメリカ地区のオーディオビジネスが段々と追い込まれてきた。
1987年には1$→¥150になり、ドルの価値は半減した。日本国内は、円高により不況よりも不動産バブルが起き、その後バブルに突き進み、それが崩壊し、さらに円高が進み、現在の1ドル→¥84で、大不況になっているのは当然の結果である。
次回は、国内オーディオ産業について述べます。ありがとうございます。

(以下は余談ですが、本音です。)

このような変遷は、歴史に必然なのか?政治家、経営者の責任なのか?
アメリカの凋落をみると、次は日本であり、そのとき国民は貧富の差が拡大し、多くの方が貧乏になると思われる。
けれども、為替レートが実質¥200くらいに下落するとインフレとなり、実質少ない給料でも雇用だけは増えることを祈るしかない気持ちである。若い方が本当にかわいそうである。シルバー世代は逃げ切るのだろうか?
それにしても、政治家の皆さん、内紛や政局がらみをやっている場合ではないと思う。
事態(国が沈んでいく)が大変になると、人間、自分のことしか考えられないのでしょう(情けない!)
若い方達、団結して主張し頑張らないと、かつての暗い日本、そして大変な犠牲を払った崩壊の歴史が、形を変えて繰り返すことになりかねません。


2010年12月19日掲載


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