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イシノラボ/マスターズ店長の連載

第1弾 日本オーディオ史

第68回 ロジャースジャパン破綻、休眠、そして、イシノラボの立ち上げ

破綻の重大要因

一気にこの苦境を乗り切ろうと大ヒットを狙ったのであろうが、大量販売が可能な小型スピーカを開発中という情報がイギリスロジャースより入ってきた。

それは、BOSEやJBLのような樹脂キャビネットを採用した小型スピーカを設計していたらしい。 全体の工業デザインは、FIマクレーランを手掛けた有名デザイナーを起用して、スピーカシステム設計はアンディ・ウイットルが担当したという。
しばらくして、量産試作品が送られてきた。全体のイメージは“JBL Control 1”に似ており、13cmウーファに25mm口径のドームツイータの2WAY構成であった。

さっそく、営業責任者の新井さん(故人)と一緒に聴いてみた。派手なサウンドであった。欠点は低音域が明らかに不足であった。
スペックは4Ωで90dBを超える効率という。だから、低音が不足していると思った。小型キャビネットだと、低音が不足するから、低音が相対的に出るように、中音域~高音域の効率を低音域に合わせるように下げなければいけない。それには、振動系を重くして、効率を下げる。
例えば、LS3/5Aが効率80dBしかないのは、低音域に合わせて、振動系を重くしているからなのである。従って、スピーカは小型になれば効率が下がるのは、下げざるを得ないからなのである。

我々としては、このようなサウンドでは、JBL並みに安くしても、とても日本では売れないと感じた。けれども、経営陣はこのプロジェクトの成功を信じて、開発費をつぎ込んだのであった。せめて、サウンドバランスがうまくとれていれば、大失敗とはならないはずであった。

秋のオーディオフェア(当時は池袋で開催)に大々的にPR、訴求することになった。

初めて、香港からロジャースオーナーも来日して、オーディオフェアーを視察していった。ちょうど、ロジャース創業50年の記念すべき年であった。

経営の縮小、経費削減

やはり、オーディオ界は甘くはない。いろいろ広報、広告宣伝、等のプロモーションをおこなったが、まったくと言って良いほど、売れなかった。在庫は溜まる一方であった。

他の海外地域も売れなかった!

倉庫代(¥1万/坪くらい掛かる)も多額の費用が掛かるようになってきた。
見るに忍びなく、私は妻の実家のスペースが空いていたので、トラックを借りて、200セット程度を運び、無償で預かった。
また、営業責任者の新井さんはじめ、3名の方が自主的に退社された。日本事務所の経営は私が一時的に担当することになった。事務所スペースも2フロアー借りていたのを1フロアーに縮小。ともかく経費削減に努めたが、赤字経営は続いていた。また、経理費用は監査法人が必要とされたので、毎月の経理状況を報告したが、そうすることによって、監査費用が生じた。何とか、赤字額を少なくしようと努めた。資金繰りは銀行融資信用がないのでできず、香港本社からの送金に頼らざるを得なかった。
売上はこれまでのBBCモニター系スピーカやアンプ類で、当時のポンド高もあって、なかなか利益も上がらなかった。

営業職を担当する

営業して売らなければ、どうしようもなく、私は技術、サービス担当しながら、営業もやることにした。
特に、私なりに技術的なメリットをつけての営業策を考えて、特に真空管アンプ、E-20aについては、パワー管をロシア製6L6GTからKT66に交換し、調整し、銘板もKT66バージョンとして作り、それを貼り付けて、価格アップして、限定モデルとして、差別化を図ったりした。これは関東地区の何店舗かは気に入ってくれて、買ってくれた。
また、BBCモニターの特長を説明し、お店がお客さんにセールストークできるようなプロモーションにも精を出した。
再度、九州、大阪、四国、首都圏と動き回った。けれども、けっこう営業という仕事はストレスが多く、大変なことが良くわかった。
また、東北地区は経済的格差もあるのであろうが、オーディオ店も少なく、売上も多くない。この傾向は大震災後では、さらに顕著になっていると思う。

もうこれまでと思い、私は自分のクルマに詰めるだけのロジャース製品を積んで、セールスツアーに出掛けた。これを売りきるまで、出張から帰らない意気込みであった。
水戸、日立、郡山、福島、米沢、秋田のお店の訪問販売というかたちで訪問した。
そこまでやると、東北のお店の方々は情に厚く、何とか2泊3日で売り切って帰れた。

また、当時、仙台にヨドバシが開店することになったので、かなりのロジャース製品を車に詰め込んで、仙台店に納入し、店頭展示までして、売上アップに頑張った。ところが、ヨドバシが開店特価セールとして、ロジャース製品を一時期、安売りした。さっそく、仙台の野田屋から、呼び出しを受け、安売りクレームを受けたりした。
このことは覚悟していたので、さほど、ストレスにはならなかった。

それから半月して、私はロジャース従業員としての身分から退くことにした。けれども、放り出しておくこともできず、3日/週ほど出勤する契約社員となった。大幅に収入が減ったが、いつまでも、この形態が続くことは許されないと思っていた。
それから、2カ月ほどして、香港本社から、日本法人としてのロジャース事務所をクローズする旨の連絡があった。わずか2名残っていた従業員(正社員)は1週間程度でいなくなってしまった。わたしは事務所の鍵を預かり、残った事務製品を処理し、経理資料は香港本社に送った。妻の実家で預かっていた200セットのスピーカーをレンタトラックで運びだし、倉庫会社に持ち帰った。
あと、コンテナを手配して、在庫全部、香港に送り返した。最後に事務所のカギを大家さんに返却して、ロジャースとの関わり合いは終了した。ロジャースジャパン(株)は休眠会社となった。

ロジャースジャパンでの活動期間は約3年であったが、長年オーディオ界にいただけに、最初から、やさしくない仕事と感じていた。けれども、海外オーディオ、アンプ開発、営業活動等々、大変興味深く、慣れない営業業務でストレスあったにせよ、一度も、暗い気持ちになったことは無かった。

そして、覚悟として、ロジャース以後は個人事業主をして、やっていくことを決めていた。とりあえず、ロジャースのサービス業務を引き受けることにした。幸い、香港本社はサービス用部品は無償で提供してくれたが、大して価値あるものはなかった。

イシノラボのスタート

アメリカサンスイのOB、F・Iさんはフレンドリーで、アメリカ人とも仲良くなれる方であった。F・Iさんは佐々木硝子のガラススピーカのアメリカ販売でうまくいかなかったが、アメリカ国内で買付、日本に送る業務を少しやっていた。

わたしのほうから、アメリカで真空管を探してくれないか?と頼んだら、NY市内で真空管はじめとする部品を販売するユダヤ人と仲良くなってくれた。R・Mさんという方だが、彼は、アメリカンブランド、特にRCA真空管の買い付けに特にルートを持っていたらしい。この時代、まだ、アメリカブランド真空管の市中在庫が豊富にあり、価格もそう高くはなかった。 そのような仕入ルートができたので、真空管販売することにした。とりあえず、自宅を本拠地、販売方法は通販として、まだ、ネットの普及は黎明期であったので、広報はオーディオ誌“無線と実験”に広告を掲載することにした。取引はFAX、TELであった。
特に、RCAブランドの12BH7A,6L6GC,811A,12AX7,12AU7,2A3,45,5U4GBなどなど、新品でたくさん仕入れることができた。勿論、併せて、GE,SYLVANIA,Raytheon等のアメリカ製真空管があった。
また、同時に、ロシア製真空管も仕入れることができた。当時、真空管通販はかなり売れて、ビジネスとしてのうまみがあったが、将来的には真空管通販だけでやっていくことが難しいということは認識していた。

だから、フリー・オーディオエンジニアとしての仕事を探っていた。そのようなとき、サンスイ(当時はまだ300人規模で活動)から、お声が掛かった。さあ、どうなるのか!

ここまでお読みくださってありがとうございます。まだ、続きます。


2015年 3月25日掲載


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